この日を忘れない



生きている限りこの日を忘れることが出来ません。

人は何故人と争い戦うのでしょうか。

今も無駄な戦争の被害に遭っている国民の姿が
TVのニュースで流れております。

罪のない人々が逃げまどう姿を見ますと溜まらなくなって参ります。

男が戦を始めて女が後始末をする悲劇が戦国時代から永遠に続くのでしょうか。

一見平和そうに見える我が国も決して平和とは言えない気が致します。

どうか再び61年前の悲劇を繰り返す事が有りませんように・・・

戦争で被災した方達が損害賠償の訴訟を国に起こす動きが映像で流れておりま
したが・戦争の惨めさを風化させないためにも一つの良い動きだと思いました。

どうかこの辺で真の平和を真剣に考えて頂きたいものです。
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終戦記念日に寄せて・戦後の生活



「にいたかやまのぼれ」「トラトラトラ」の無電で始まった
この戦争が、終わりを告げて今日で60年の月日が
経ちました。

私が書きました「私の戦争体験記」は、私の6歳の
終わり頃から10歳前後の記憶の綴りです。

所々話が前後しているかもしれませんがサイトの
方達に助けられて書き終えることが出来ましたことを御礼申し上げます。

書き始めましたら記憶が鮮明に甦ってきたことは、如何にこの戦争が「個」を犠牲に
しての無意味な戦いで有ったかを物語っていると思います。

戦中にも増して戦後の生活の大変さを語る大切さを感じました。

食糧難を初めとして、生活用品の不足による生活の不便さは、言葉では語り尽く
せない物があります。

育ち盛りの子供のために、ヤット焼け残った衣類と交換したお米が「取り締まり警察」
の手によって没収されていたのです。

同じ日本人で在りながら見逃すことが出来ない、この人達も同じ飢えに苦しむ家族を
抱えていたのでしょうに。

人は立場が逆転した時に蛇にも邪にもなれるのですね・・伝染病を始め肺結核で
一家全滅の家も出るほどでした。

ツベルクリンの接種とBCGの接種が学校では行われました。

ララ物資による名ばかりの給食も始まり、日向臭い粉ミルクを貪る様に飲んだもの
です。

復員してくる兵隊さんも日毎に増え、悲喜こもごもの家族が増えていったのです。

無事に帰ってきた家と、白木の箱だけの帰還の家の差は、生活苦に結びつくからです。

夫の留守を幼子を抱え戦火の中を生き抜いてきた母親達も疲れ切っていたと思います。

続いて起きた銀行の閉鎖・新円切り替えと経済的にも追い込まれていったのでした。

自分の蓄えすら自由に成らないこれが戦争に負けると言う事なのです。

私が良く覚えていますのは、お札に小さな印紙を貼って使っていたときに、その印紙
が剥がれて10円(今では一万円位の価値があると思います)のお金を使うことが
出来ずに母に怒られたからです。

両親が嫁入りの資金として買って置いてくれた国債は紙くずになりました。

何もかもが,無くなってしまった大人達はお酒の変わりに安く手に入るメチールアル
コールを飲んで憂さを晴らしその犠牲として、失明した人が沢山居ました。

こんな生活状態の中から良く立ち直った物だと思います。

何でも手作りで鉄兜は鍋に・焼け跡から拾ってきたトタンは塵取りに・兵隊さんの毛布は・外套に、何でも工夫してリサイクルしないと生きられませんでした。

それでも、隠れた闇物資が沢山あったようです、船が無く外地に送ることが出来な
かった、物資が何処からか流れ出してきて、その恩恵に預かって生活している人
達もいたようです。

子供達は,進駐軍の帽子に憧れ一番速く同化していったのは子供達かも知れません。

戦火を逃れ、親を失い・凡てを失っても受け継がれた命は逞しく次の時代を築いて
いったのでした。

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戦後60年の今日・・この戦争で尊い命を落とされた方々のご冥福を心よりお祈り致します(合掌)
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少年兵

奇しくも終戦記念日の日に甲子園球場では、前橋商業

高校と町田の日大三校の試合が朝早くから行われて

おりました。

どちらも負けて欲しくない、出来ることなら両方勝たせ

てやりたいと出来ない願いを胸に見ておりました。

前橋商業は、戦時中に高射砲陣地として、中島飛行場の西隣にあって沢山の兵隊さんが宿営していた学校です。

家の近くに大きな冷凍会社が在り、炊事当番の兵隊さんが、代わる代わる天秤棒を
担いでお魚を採りに来ておりました。

ある日知らない少年兵の兵隊さんが、私に気が付いて、手招きを致しますから、電

信柱の陰から怖々と出ていきますと、沢山入っている飯台からお魚を出して私に呉れたのでした。

大きな冷凍のニシンでした。

この兵隊さんは、自分が当番の時には、何時もお魚を私に下さいました。

母が怒られたら大変だから、貰ってはいけないと心配しますので、断りますと「大丈夫だよ沢山有るから」と言うのでした。

母がもし咎めらでもしたら兵隊さんが気の毒だからその時間は外に出てはダメと言う
のでしたが、私は週に一度その兵隊さんに逢うことがとても楽しみでしたから。

母に見つからないようにソット逢っていました。

ある日母が兵隊さんに毛糸の靴下を編んで呉れました。

それを渡せたのが最後でした。

ニシンと兵隊さんは私の初恋かも知れません。


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町田の小山田桜台に有る日大三校は,春には桜のトンネルが出来るほど両側に

植えられた桜が大きくなって車で毎年夜桜見物に行った物です。

夜間照明付きのそれは見事な野球の練習場が有りました。

町田に居りました頃は、楽しませて貰いました。

近くに有ります桜美林に幼い頃お世話に成った息子は、最近強くなった日大三校が気に入らないようですが。

桜の並木は、見事で花吹雪の中を車をゆっくりと走らせるのでした。

桜美林についで2度目の優勝旗を持ち帰りましたときは、町中上げての大歓迎でした。

長いこと町田の住人として暮らしてきたよしみで、今又西東京の住人としては、人情的にも日大も勝って欲しい私でした。

この暑さの中を白球を追いかけて泥だらけになって、無心にプレーする姿には感動致します。

夏の甲子園は今年も暑く私を時めかせてくれるのでした。

「炎天下 物ともせずに 白球を 汗にまみれて 追うわ若人」
[ 更新日時:2005/08/16 08:55 ]

16:29 | 私の戦争体験記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

クラス会名簿



クラス会名簿に目をやると「死亡」の人が年々増え
て来る・・年だなぁと思うこの頃です。

中に一人気になる人が居ました。

彼は戦災孤児だったのです。

東京から母方の親戚に引き取られては来た物の
の、何かと不自由な生活を送っていました。

中学生とも成りますと年頃ですし、余り友達も作りたくないようで何時も一人で講堂
の壁にもたれて青い空ばかり見ている男の子でした。

同じ東京の空の下にいたと思うと気になって仕方有りませんでした。

特に学校でお金を集める日には、黙って外に出て行ってしまうからです。

クラス担任の先生は、何時も黙って彼の分をソット渡してくれました。

必ず「誰にも言うな」が口癖でした。

彼の名前の横に「死亡」の字を見付けてホッとしたような、物悲しいような気がした
のも八月十五日が近いせいかもしれません。

迎え火を焚くからね・・「明君」・・
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頂いたコメントから

[梢華] [2005/07/31 23:23] [ MyDoblog ] [削除]
こんばんは。
記事を拝見していて、祖母が話してくれたお話を思い出しました。
昔我が家では馬を飼っていたのですが、戦火の中とうとう軍馬として供出されることになったそうなんです。
でも、当日トラックが来て、馬を引いてきても、中々トラックに乗らないんだそうです。
自分がどこにいくのか、まるで解っていたかのように、足を踏ん張って後ろづさりをしていたとか。
何人もの大人から手綱をひっばられ、尻を押され、鞭を打たれて、無理無理乗せられた馬が、顔を精一杯伸ばして嘶くんだそうです。
目にいっぱいの涙を溜めて。
その時の声が忘れられないと祖母は言ってました。

その話に、人間だけが戦争の犠牲になっているわけじゃないのだと、子供心に思いました。
戦争は知りませんが、悲しい思い出です・・・。

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