乗り合いバス

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夕焼け小焼け号がこの連休でバスは長いお休みに入ってしまいました。

未だ新しい形のバスだと思っておりましたが40才だそうですから
引退も仕方ないのかも知れませんが。

私の想い出の中に残っているボンネットバスはもっと形が古い物です。

座席は相向き合いで座れる人は僅かでしたから前の人の荷物は自然と
自分の膝の上に置くのが普通でした。

方向指示器が長い三角形のような物が出て曲がる方向を知らせて
おりました。

ボンネットも蛇腹で横から巻き上げて山道を登る前に車掌さんが
バケツでお水を入れていた姿が羨ましくて一度やってみたいと
思ったものです。

女の車掌さんが鋏で切符を切っていてバス停に来ると自分が先におりてからお客さんを下ろした後バスに乗ると綺麗な声で「発車オーライ」と言っておりました。

戦後は木炭車で山道に来ると男の人がみんな降りてバスの後ろから
押して山を登るのでした。

一日に何本も本数が無く発車した後は次のバスを待つよりは自分の脚で歩いた方が目的地には早く着きますので良く歩きました。

履き物は靴では無くて下駄でしたから田舎道では時々下駄の歯に石が挟まって叩いて取り外した記憶も今は懐かしい想い出です。

空襲から解放されて長閑な時間を歩きながら電信柱のホーローの看板を読みながら歩くのは字が読める嬉しさを意識した初めです。

バスからボンネットが無くなった頃は自転車族になっておりました。

バスの中は和気藹々で世間話に花が咲き人と人が触れ合える良い乗り物でした。


08:48 | 私の戦後記録 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

続く事件が気がかりです



あるサイトで藪入りという懐かしい言葉に
出会った朝でした。

TVが全盛時代の昨今では落語・講談・浪花節から
聞き覚えて行く言葉が段々と遠くなっていくようです。

何だが大事な落とし物をしていくようで寂しく感じる
のは年だからでしょうか。



戦後世の中が幾らか落ち着いては来た物の
まだまだ貧富の差が激しく「家が貧乏だから」
と諦めることが出来た世代です。

或る総理は平然と「貧乏人は麦を食え」と言っておりましたから。

そして戦後「良家の子女を守るために」こんな事も・・・
何が良家なのでしょうか・・・
親にとって子供は皆等しく宝ではないのでしょうか。

昨日は又漁船がロシヤに拿捕され一人の方が
亡くなりました。

大切な息子さんを亡くしたお母さんの涙に暮れる
姿が本当にお気の毒でした。

戦後61年経っても終わらない諍いが続いていて
真の平和な国と言えるのでしょうか。
10:16 | 私の戦後記録 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

便利は不便



毎日のように母が明るい内にご飯を済ませようねと
言っていた言葉が懐かしい
毎晩夜になると停電で小さな蝋燭の明かりでは目が
悪くなるから本を読むことも出来ない
ラジオは昼間は尋ね人の時間で人の名前と住所だけだった

二股ソケットから引いてあるのはラジオ位で他に電気製品は
無く凡てが足りていた時代で停電そのものはさほど不自由と
思わないで過ごせた

朝のニュースで東京・千葉方面の大規模停電を知り
背筋が冷たくなったのは私だけだろうか
遂に来るべき物がやって来たかと一瞬思って終ったから・・・
明日は終戦記念日でもあるし・単なる事故と聞いて一安心を
するが家庭生活が便利になって電気が無い生活が考えられない
昨今です

原点に戻る難しさを一時考えて終いました
16:31 | 私の戦後記録 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

吹き出ていた水



夕暮れになると人恋しく成るような景色に弱いの
は敗戦後の焼け野が原を思い出すからだろか。

あの頃は本当になにもなかったと思う。

壊れた水道から水だけが噴き出していただけだった。

誰も無口で、疲れたような姿の復員の兵隊さんがリック
サックに鉄兜をくつけて丸めた毛布を上に載せて歩いている姿を珍しそうに
眺めていた。

あの焼け野が原から今のような豊な生活を誰が想像しただろうか。

辛い想い出だけれども書き留めていきたいと想う今日この頃です。

消えていきそうな想い出を追いかけて・・・

18:05 | 私の戦後記録 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

南瓜はいらない



結婚して初めての夏・夕食に南瓜の煮付けを作って出すと
日頃食べることには温和しい人が珍しく箸を付けないので
「嫌いなの」と聞いてみると。

「うん・もう一生食べるだけ食べたから」南瓜はいらないと
のこと。

戦後の食糧難の時代明けても暮れても「南瓜」「薩摩芋」「馬鈴薯」
が主食変わりで食べられるだけ幸せで食べられない人も居たのだから。

「ふすま」「玉蜀黍の粉」これで何時もお腹を壊して下痢が止まら
ない状態で最後には栄養失調で亡くなる人もいた時代だった。

「ふすま」「玉蜀黍の粉」は今では家畜の餌だからです。

うどんが食べたいと言う私に母が作ってくれた「馬鈴薯のうどん」は
後々語りぐさになった。

馬鈴薯を千切りにして少しの小麦粉をまぶし煮込みうどんにして
くれた・・・それ以来二度と食べ物で困らせることは言わない子と
なった。

大豆が入ったご飯は冷めると硬くてぼろぼろでお箸から溢れて学校で
は困ったが・学校に行ける日は嬉しかった。

お教室が無くて校庭での青空教室だった。

それでも友達に会えることは嬉しくてその日が待ちどうしかった。

時間が経つに連れて友達が日毎に減っていった。

東京に帰る人が居ると無性に東京に帰りたくなった物だ。

中にはお父さんが遺骨で帰ってくる人も居た。

終戦後の遺骨の帰還は寂しいものだった・・・何故なら英霊では
無いから・・・これが戦争なのです。
18:41 | 私の戦後記録 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑