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ひなたぼっこの縁側日記

日々のことをつれづれなるままに書いて行きたいと思います。
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母のおもいで。。。とても出来ません・・・私には、貴女のまねは!!



主人が倒れましたときに、明治生まれの母は「全うに生きていればお天道様と米の飯はついて回る」
と言って私を、励ましてくれました。
母の生まれ育った群馬県は、養蚕の盛んな土地柄でしたので、多くの娘さんが、製糸会社で働いていたようです。手先の器用な人でしたので、母の紡ぐ糸は何時も高い値段で取引されていたようでした。横浜で博覧会が開かれた時には、群馬県の代表として生絲が出品されたそうです。93歳になる母から「デニール」と言う言葉が出るとは驚きでした。・・・(↓の出来事は、母が晩年ある小史に書いたものを、私が、書き換えました。)


ある時製糸会社で「疫痢」が流行り女工さん達が、次々倒れたそうです。亡くなる方もいて工場内は落ち着きが無くなり、思案に暮れた母は彼女達を逃がしてやることにしたそうです。

夕食後にみんなを集めて荷物は最小限にすること、2.3人でさりげなく門を出て行くこと、後は、自分が責任を取るから心配しなくて良いこと、だだし工場が元に戻った時は
必ず戻ってくることだけを言い含めて、15人いた自分の下で働いていた子供を無事に
親元に帰したそうです。


「野麦峠」の時代と違い、母の時代は、勤務時間外は外出も出来ましたし、お稽古ごとにもいけたそうですが、中には前借りで来ている人もいたそうですから、かなりの度胸がないと出来ない行動だろうと思います。

母は、会社から余り咎められることもなく、工場が落ち着くとみんなが帰ってきてくれたことはとても嬉しかったと、よく話しておりました。

幾ら国定忠治のお膝元でもまさに女侠客そのものです^^;
こんな母に育てられたのに私はなきむしです(TT);

「厳しさの裏を返せば生きてきた道が語るか遠い人」

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