啼かないで元気でいてね2005 / 07 / 31 ( Sun )
![]() 日曜日に登校することは出征兵士の見送りか、「英霊」 の帰還を迎える為でした。 この日は農家で飼っている馬が戦地に応酬されて行く のを見送る為でした。 農家では、田んぼの仕事や畑の仕事に馬か牛を必ず 飼っていましたから。 戦争が段々激しくなってきますと、人間だけでなく、多くの馬が戦地に軍馬として 出征していたのです。(この場合供出が正しいのでしょうか?) 馬は小さい私には、大きくて怖い存在でしたがあの優しい目は好きでした。 飼い主に手綱を取られて校庭には沢山の馬がいて叔父さん達は三々五々集まって 何やら話をしているように見えましたが、みんな何処か寂しそうでした。 中には、お父さんが居ないのでしょうか、叔母さんやお兄さんに連れられた馬も居ま した。 どの馬も綺麗にブラシを掛けられて肌がつやつやとしてとても綺麗でした。 子供心にも口をきくことの出来ない馬が可哀想だと思いました。 式が始まりますと立派な口ひげを生やした偉そうな軍人さんが、朝礼台に登って何やら話し始めたのです。 この軍人さんはT市の聯隊から来た偉い軍人さんだと男のが教えてくれました。 男の子は軍人さんに夢中で胸に下がっている飾りが凄いのが気になるらしく大きくなったら、あんな格好をして馬に乗って見たいと言っていました。 馬は何かを感じたのか一匹が啼き始めると前足を揚げて立ち上がる馬もいて私は一番前に並んでいましたから。 いつ馬に蹴飛ばされるか、何時手綱が切れて暴れ出すか気もそぞろでした。 馬を引いている農家の人達は馬を宥めるのに、一生懸命でした。 式典が済んで馬は校庭に止めてあった軍隊の大きなトラックに載せられ始めました。 農家の人と馬の別れが馬のいなな啼きと重なって可哀想な感じがしました。 トラックが校庭から出て行くときは、叔父さん達は路に出て見送っていたのが寂しそう で可哀想でした。 私の記憶の中では後にも先にも初めての経験でしたから・・ 友達の家の馬も供出したそうです家に帰りながら泣いていました。 馬小屋が綺麗に掃除されていたのは、今でも忘れられません・・馬の毛が馬小屋の 入り口に半紙に巻かれて下げて有りました・・・ 軍馬についてのサイトは此方・・ 手厚く祀られております。軍馬・軍鳩の碑 |
退院後の外来・・闘病記2005 / 07 / 31 ( Sun )
![]() 退院するときに、最終検査をして一錠増えたお薬が 入院中は呑めたのに家に帰ってきて数日すると日 ごとに血圧の上昇が酷く朝から身体がだるくて 食事も砂を噛むような感じになってきましたので・ 10日目に思い切って辞めてしまいました・・ので 今日の外来は気が重かったのです。 怒られたらどうしようと思うとトイレばかりが気になって・・先生は優しい面白い先生なのですが・患者さんを大切にして下さいますので此方が勝手なことを致しますと怒られます。 娘の勤めの関係もありますので、予約の時間より早く行って受付で事情を話して時間 も都合を付けて頂いておりましので・・ 早く順番が来て欲しいのと・どう言い訳しようか頭の中は堂々巡りの侭で名前を呼ばれて中に入りますと「どう・調子は大丈夫そうですね」の一言に救われました。 薬が飲めなかったお話を致しますと「新しい薬ですから・・構いませんよ」と言われてホッと致しました。 と言うのも以前に頻繁に具合が悪くなって入院をして来た方が先生に怒られているのを見ておりましたので・・診察の結果は大丈夫でした。 無理をしないで身体と相談して生活して下さいねと言われ放免されたときは此で美味しいお昼が食べられると思ってしまいました。 口角炎が今朝から出来た事をお話して「ケナログ」を出して頂きました。 風邪を引いて「カラスのお灸」が出来たのは、初めてですのでそれだけ今度は身体が疲れていたのだろうと思います。 帰りに娘にお礼の気持ちを込めて少し贅沢なお昼を頂いて帰って参りました。 久し振りに親子水入らずの食事も良い物でした・・気分も軽くなっての帰りは降り始めて来た雨も気にならず家まで送って貰ってなんと有り難いことか・・ これで明日から又元気な私にもどれます・・感謝です・・ ※「カラスのお灸」とは、子供の頃に唇の端が切れたりタダレたり致しますと「人の悪口」を、言うとカラスがお灸を据えに来ると良く言われたものです。初めて出来て懐かしく思い出しました・・ [ 更新日時:2005/07/13 07:09 ] |
学校生活毎日の決まり2005 / 07 / 30 ( Sat )
![]() 人は可哀想だと思えば庇いたく成るものです。 それ故なお可哀想なことが起きてしまうのです。 間に入った本人が一番辛い思いをするのですが、 人間が人を愛する感情を無くしたとしたら。 世の中は殺伐としてしまうことでしょう。 母がいなくなって寂しそうな私をお婆ちゃんが庇えば従姉妹達が面白くないのは当た りまえです。 賢いお婆ちゃんは、私を庇いませんでした、その夜から従姉妹達と一緒に寝かせたのです。 従姉妹のMちゃんは、3歳年上でしたから妹が二人出来たようで可愛がってくれました。 夜中も起こして用足しに連れて行ってくれましたので、私はその夜から失敗をしないで済みました。 朝、早くから草刈りに行くのが子供の仕事でしたから、大きな釜を持って慣れない草刈りにも行きました。 お陰で毎朝、山羊のお乳が飲めたのです。 学校は、母が出た学校で親戚の叔母さんが先生をしておりましたから、廊下で行き 逢うとソット頭を撫でてくれるのでホッとした物です。 後で知ったことですがお婆ちゃんが頼んでおいてくれようです。 その頃の学校は毎朝、朝礼が有りました。 広い校庭に全員が集まって皇居のある方に向かって最敬礼をしてから、「教育勅語」の暗唱が始まるのです。 1・2年生は、ただ口をもぐもぐしているだけでした、先生が大きな声で「ちんおもうにこうそこうそくにをおさむること・・」・・と・・そして最後の「御名御璽」だけを大きな声で言っていました。 確か(何度か転校しましたが)何処の学校にも「奉安殿」が在ったようです。 天皇陛下と皇后陛下の写真が飾ってありました。 必ず正門から這入り門の所で最敬礼をして、次に「奉安殿」に向かい最敬礼をしてから、お教室にはいるのでした。 何も意識することなく、こうして子供達は愛国精神を学んでいったようです。 学校の行き帰りも大変でした家の門に「英霊の家」の木札が在る家に対してはお辞儀をして通るのが当たり前でした。 急いで帰るときにはたんぼ道を通る知恵が子供にもありました。 暫くすると「出征兵士の家」と言う札も出来たようですこうして戦争と言う渦の中に否応なしに引き込まれて行きました。 「教育勅語」のサイト 「奉安殿」とは・ 記憶違いだと困ると思い探したサイト「英霊の家」 |
慣れない田舎での生活2005 / 07 / 29 ( Fri )
![]() 1944年頃は、交通の便も悪く、情報も今のように豊か では無かったので田舎と都会の生活にはかなりの違い がありました。 日常生活も大きな違いがあり見るもの聞く物が珍しい 生活が始まりました。 戸惑うことの方が多かったような気が致します。 お婆ちゃんを始めみんなが暖かく迎えてくれたことは幸せでした。 年の近い従姉妹達も仲良くしてくれましたが、一番困ったのが言葉でした。 普通に話していても気取っていると言われて次第に話さない子になって行くのでした。 母からは、お世話になるのだから何でも一生懸命にお手伝いをするようにと言われておりましたから、それなりの努力はしたのですが。 一番怖かったのが釣瓶井戸でしたはね釣瓶でしたから足下が大きな井戸の穴でした。 桶を井戸に落とすと自分も一緒に落ちてしまいそうで慣れるのに一番時間が掛かりました。 お婆ちゃん・叔父さん親子四人・母の弟二人・2番目の叔父ちゃんは、その前の戦争で支那から「傷慰軍人」として帰ってきていました。 一番下の叔父ちゃんは「陸軍士官学校」(現在自衛隊榛名駐屯地)の生徒でした。 母と私が加わって9人の大家族になってしまったのです。 学校では「疎開子」として虐められました農家に対して非農家と言う言葉も始めて覚えました。 いつもの普段着で学校に行くのですが、洋服を着ている子は珍しいらしく一人だけ目立つのが嫌で、母に頼んで「標準服」を作ってもらいました。 運動靴から「わら草履」にと日が経つに連れてみんなと同じになり従姉妹達とも山に牛車に乗って薪拾いに行く事にも慣れました。 日常生活がガラッと変わった為か気の使い過ぎなのか「おねしょ」が始まって母に苦労を掛けました。 従姉妹達にも恥ずかしくて嫌でしたこうして少しずつ田舎の生活にも慣れた頃母が隣村の叔母ちゃんの家にお手伝いに行くことになったのです。 私も行きたかったのですが学校の手続きが面倒なので残ることになりました。 叔母ちゃんの家は村で一軒しかない「床屋」さんで、叔父ちゃんに何時招集礼状が来るか分からないので。 叔母ちゃんが理髪師の免許を取るためのお手伝いに行くことになったのです。 母を送って同い年の従姉妹と出かけましたが、一山越えていくのには、帰りのことを考えると心細さで涙ばかりが出てきました(距離にして一里は優にあったでしょう、往還 から山道に入りますと、人家は無く次の部落まで何を目印に歩くのか、見当が付きませんでした。) 夕方母に見送られて二人して帰る路は長く遠い物でした、こうして誰にも頼ることの出来ない一人だけの生活が始まりました・・つづく・・ 陸軍士官学校とは 釣瓶井戸とは 戦時中の衣服や生活用品のサイト |
引っ越しと言う疎開です2005 / 07 / 27 ( Wed )
![]() 今のように引っ越しセンターがあるわけでもない中で、一軒の家を 畳むと言う事は、並大抵の事では無かったと思います。 少しずづ荷物の整理がされて最小限度必要とする物だけを纏めて いたようでした。 細かな物で、「慰問袋」に入れられそうな物は、母が近所の方と 暇を見付けては、「慰問袋」を拵えていました。 チッキで出すのですから、一度に沢山の物は送ることが出来ません。 汽車の切符もすでに簡単には手に入らないたらしく、父が毎晩のように駅に並んで ヤット手に入れたのは母と私の二枚だけでした。 ある晩私が寝てから父と母が何か言い争いをしている声で目を覚をさめました。 何気なく聞いておりますと、お雛様をどうするかと言う事のようでした。 母はこの非常時に置いていきましょうと言い父はあの子の為に是だけは手放せないと言い父が強引に母を説き伏せて、お雛様は私と一緒に疎開をすることが出来たの です。 綺麗な箱に収めて有りましたので、駅での検閲に咎められる事もなく無事に済んだと 後で父が喜んでおりました。 学校では日に日に子供の数が減り、三月が過ぎれば学童疎開が始まるとのことでしたので、私の一年生の終業式を済ませて母の田舎に行くことになりました。 父の物だけを残してがらんとした部屋で、三人で枕を並べて寝たのは此が最後で した。 こうして母の里に身を寄せることは出来たのですが、荷物は隣村の叔母が納屋に預かって呉れました。 大変な思いをして疎開した荷物が心ない人に依って持ち出されたのは、悲しいこと でした。 当時は物資が不足しておりましたから、仕方が無かったのかも知れません。 綺麗に梱包されてたお雛様は、どんなに高価な物が這入っているかと思ったのかもしれません。 お雛様のお道具だけは無事でした。 玩具のない田舎での生活にこのお道具が私の唯一の慰めでした。 一人っ子の私は、従姉妹との楽しい生活を夢見ていたのですが、現実は厳しく三ヶ月 程で、母と二人の生活が始まるのでした・・ 疎開についてのサイト 戦地に送った慰問袋の数々です。 あの当時の国鉄の様子とチッキについて。 ※誠に勝手で申し訳有りませんが、記事を一部訂正致しました。 |
日に日に悪くなる食糧事情2005 / 07 / 26 ( Tue )
![]() 日常の食料が、統制下に置かれて配給制度になり 今のように冷蔵庫が有るわけでもなく。 生もののお魚が一度に沢山配られても傷んで しまい母は、何時も苦労をしていたようです。 猫の額のような庭には、色々な物が作られて いました。 カボチャは、代用食の代表選手でした「結婚しましたときに、南瓜は一生食べるだけ 食べているから、食べないと主人が言っておりましたから」 塀に沿って玉蜀黍が作られてました、その隙間に朝顔が時々咲いていたのが慰め でした。 何処の家も皆同じ様で、食べる事に精一杯だったのです。 大豆は家の前の通りのアスファルトを掘り返して作っていました。 大豆は、ご飯に混ぜてお豆のご飯にするためです。 お豆のご飯は、美味しかったのですが、これを食べると決まって私はお腹を壊しました。 母と芹摘みに近くの田んぼの畦に出掛けました、田舎育ちの母は、食べられる野草をよく知っていました。 田んぼのタニシは今思えば、大切な蛋白源だったようです。 近くのガキ大将が、バケツ持ちに良く連れて行ってくれましたが、蛭がいて私が泣き 出すと優しく取ってくれました。 子供の世界では、未だそんなに悲壮感はなく、毎日が楽しく過ぎていったのでした。 学校では、日に日に友達が疎開して減って行きました。 我が家でも父が真剣に疎開を考え始めました。 そして、家の中から少しずつ荷物が無くなっていきました。 ある日父が散歩がてら、近くの農家に行きましたらアヒルの卵を頂きました。 その大きくて重いのに驚いている私に美味しいよ・・食べられるからねと言われました。 少し気持ちが悪いと思いましたが、母が焼いてくれた卵焼きの美味しさが忘れられ ません。 今思えば随分と贅沢な事だったのですね。 この時、父は大切な本を何冊か持って行ってそこの家の息子さんにあげたようでした。 このころは未だ良かったのですが段々酷くなってきますと、「竹の子生活」が始まり ました。 学校では身体の弱い子に「ハチミツや肝油」の配給が有りましたが、それも長くは 続かず一度貰っただけでした。 寒く成ってきますとダイコンの葉っぱが何処の家の軒下にも吊されていました。 「干葉(ひば)」と言って保存食になります。(今はお風呂に入れてますが)・・ お米に混ぜて炊き込みご飯にするためです。 当時は大根には葉が付いていましたから、今考えると自然と鉄分補給をしていたのですね。 19年の年が明けるのを待って我が家は本格的に疎開の準備を始めました・・つづく |
始まった強制疎開と金物の供出2005 / 07 / 24 ( Sun )
![]() 家は世田谷に有ったのですが、強制疎開に引っかかり 武蔵境に引っ越す事になったのです。 強制疎開とは、万が一空襲で火事が起きたときに家の 類焼を防ぐために取り壊して家と家の間を広くするため の物でした。 未だ充分住める大きな家(是がいけなかったのかも知れませんが)を立ち退かなければなりませんでした。 多分何の代償も無かったと思いますだだひたすらお国のための一言だけだったようです。 こうして私達家族は武蔵境での生活を始めたのでした、近所の方も良い方ばかりで お隣の叔父ちゃんや叔母ちゃんには可愛がって貰いました。 武蔵境の家は二階からお天気が良い日には富士山が見えるので私は大好きでした。 お隣の石屋さんのお姉さんがとても可愛がってくれましたから。 色々な物がドンドン無くなってきて、食べる物も配給制度になったり、学校に行くようになったら憧れのセーラー服が着られると思っていたのに。 セーラー服の衿が三角になっていたことがとても悲しかったのを覚えています。 何処の家にも玄関の前には「防火用水」が置いてありました。 何時も水を一杯にして竹で出来た簀の子が被せてありその上に三個くらいのブリキのバケツが置いてありました。 夏はボウフラが湧くので近くのお兄さんが川でフナを捕ってきて入れてくれました。 母がとても喜んでお昼に代用食のすいとんを作り3人して食べ記憶が有ります。 防火用水の側には、鳶口と火の粉を払うモップの様な物が置いてありました。 あの物の無い時代に誰も持って行く人が居なかったのが、今考えると不思議な気がします。 ある日学校から帰ってくると玄関脇の四畳半の部屋が変でした。 金棒で出来ていた手摺りが無くなっていたからです台所からは鉄のお釜屋やお鍋が 消えていました。 母が暗くならない内に早く金物屋さんに言ってアルミのお釜を買って来ないと・と言って 出掛けていきました。 母の手から指輪が消えていたのには、気が付きませんでした。 お婆ちゃんのキセルの雁首も吸い口も大事にしていた物を随分と供出したようです。 こうして生活がドンドン追いつめられていったのですが、誰も口にだして愚痴をこぼす人は居ませんでした。 戦地の兵隊さんは大変なんだよが母の口癖でしたから・・つづく 家屋強制疎開とはこの様な物です。 金物供出とは・・ |
戦後60年経ちました・・赤紙と千人針2005 / 07 / 23 ( Sat )
![]() 朝,何気なくテレビを付けると海老名 香代子さんが NHKに出ておりました。 語り継がなければいけない戦争体験の番組でした。 第二次世界大戦を語る人が段々少なくなっていく そうです。 私も8歳でしたから記憶が定かでは有りませんが思い出した事を書き綴りたいと思い ます。 お隣の叔父さんに赤紙が来る。 昭和一九年になると三年生から六年生の学童疎開が始まると言う話が彼方此方で 話題になってきました私は未だ一年生でしたから関係は無かったのですが。 お隣の叔父さんに赤紙が来て青い顔をした叔母ちゃんが。 母にすがって声を殺して泣いている姿を子供心にも何か大変な事が起きたことは理解できていたようです。 叔母ちゃんのお腹には赤ちゃんがいました。 大きなお腹をしているのと時々婦人乗りの自転車に乗って黒い鞄を持ったお産婆さんが来ていたからです。 それから二日後に叔父さんは慌ただしく出征していきました。 千人針を刺す腹帯を持って路を通る人にお願いする仕事のお手伝いをした記憶が あります何処かのおばぁちゃんが一緒だったような気もします。 子供に出来ることはこの位のことなのです。 「虎年」の人は幾らでも刺せるのです「虎は千里行って千里帰ると言って」千人針 には縁起がよいのでした。 あの頃はみんな心が一つだったのか私は寅年だからと気持ちよく沢山刺してもらうと嬉しかった物です。 路に立って「千人針お願いします」と言うと誰でも気持ちよく刺してくれました。 中には頭を撫でて呉れる人もいました。 白い晒しに赤い点で印が付いている所に赤い糸で止め結びをして貰うのが千人針す。 最後の一針は叔母ちゃんが心を込めて刺しました。 誰もが悲しく気の毒に思っていたのでしょうがそれを口に出す人は居ませんでした。 出征する朝、叔父ちゃんがみかんの空き箱の上から挨拶をしていたのは覚えていますが何を話したかは分かりません。 大きなお腹にもんぺを履いて黒の紋付きの羽織を着た叔母ちゃんが下を向いたままでいた事は良く覚えています。 その胸には「国防婦人会」と書いたタスキが掛かっていました。 こうして愛する家族を残して後ろ髪を引かれる思いで戦地に旅立っていったのでした。 学童疎開が始まるので、我が家は母の里「群馬県」に縁故(親戚や知人を頼に疎開をすること)疎開をしてしまいましたので。 叔父ちゃんが無事に帰ってきたかどうかは分かりません・・つづく 赤紙について 大日本国防婦人会 ※千人針とは・・・ |
本2005 / 07 / 22 ( Fri )
娘から電話で買い物に行きますかと誘ってくれた。
お酢を切らしていてはこの季節お料理に困るので お供させて貰うことに致しました。 暑い季節は大変に助かります一番近いスーパーでも 歩くとかなりの距離になりますから行きが下りで荷物 の有る帰りが登りとなっているのも大変です。 「お昼食べて生きなさいよ」・・「有難う」とお邪魔してお昼を頂いてさて帰ろうかなぁ〜と思っていますと。 大きな方の孫が、夏休みの読書感想文を書く「課題図書」のプリントを持ってきました。 何と沢山有ることか幸い彼女が読んでみたい本を私がみんな持っておりましたので 良かったと思いました。 「風と共に去りぬ」3巻・・是は国語の課題図書として・「太陽の子」は沖縄に修学旅行 に行くので社会科の課題図書としてだそうです。 幸いなことに私の所にみんな有りました助かったぁ〜図書館に行く手間が省けるとの こと。 灰谷さんは好きで殆ど持っておりますから・・・プリントを見てみますと懐かしい本が沢山載っておりました。 「生きることの意味」高 史明(こ さみょん)この本はかなり古い本で今は中々見つからないだろうなぁ〜と思いました。 高さんは、お気の毒に子供の自殺が話題になった時にお子さんが団地の踊り場から身を天空に散ってしまったのです。 僅か12歳の短い人生でしたまもなく追悼の意味を込めて奥様の岡 百合子さんと出版された詩集「ぼくは12歳」があります。この2冊はキチント揃えて本棚に入っておりす。 息子さんの岡 真史君が好きだった国鉄労働者で詩人の浜口 国雄の「便所掃除」が 何かを物語っているようです。 「扉をあけます/腹のしんまでくさくなります。/まともに見ることができません。/中略 おこったところで美しくなりません。/美しくすることが僕らの勤めです。/美しい世の中 もこんな所から出発するのでしょう。/中略便所を美しくする娘は、/美しい子をうむ、と言った母を思い出します/僕は男です/美しい妻に会えるかも/(ちくま少年図書館「君 の可能性」より 高 史明さんが書かれた「生きることの意味」は「在日韓国人」として強く生きてこられて生きることとは何かをお若い頃の目で冷静に見つめている良い本です。 機会が有ったら読んで欲しい本の一冊です。 中 勘助の「銀の匙」は娘が中学受験の時にお誕生日プレゼントとして買って読ませた本でした。 それが偶然にも受験の当日に国語の問題として出ておりましてお陰で試験に合格することが出来た忘れられない一冊なのです。 本が好きで良く買いますが、貸して無くなる本もあります。 暑く長い夏休み頑張って沢山の本を読んで欲しいと思いました。 私も頑張って読みたいと思いました。 「見も知らぬ国に誘う物語活字の中に生き生きとして」 [ 更新日時:2005/07/22 07:43 ] |
ひよどり2005 / 07 / 22 ( Fri )
昨年の五月頃だったと思う朝からまるで金属音のような
すさまじい鳥の鳴き声で目が覚めた。 私は本当は少し怒っていた。 何故ならこんなに早くから鳥の鳴き声のする玩具の スイッチを入れなくても「起きるわよ」と思っていたから。 (ハンズで買ってきて遊んでいると思ったから)・・そーと雨戸を開けると目の前に有る 電線に1羽のヒヨドリが停まって啼いているのでした。 フト庭を見ますともう1羽居ます。 これはメスのようでした・あぁ〜愛の賛歌だと思って「おめでとう精々仲良くね」なんて年甲斐もなく少し焼き餅焼いたりして。 下におりてきて何の気無しに椿の木の下を見るともう1羽いますヒナのようです。 少し小振りですが、もうかなり大きくなっている感じでした。 よく見ていますと庭に出てきました小さいですが羽も揃っています。 相変わらず電線の上では、もの凄い声で啼いていますするとさっきのメスが小さいヒナに近づいて心配そうにその回りを歩き始めました。 丁度土曜日でしたので近くの孫達を呼びました。 3人して暫く様子を見ていましたがどうも巣から落ちてしまい心配して親鳥が騒いでいることが飲み込めてきました。 大きい方の孫が捕まえてみると庭に出てやっとの思いで捕まえました。 よく見てみますと右肩が少し下がっているのが気になります。 屋根裏から小さい孫が鳥かごを出してきました。 お腹が空いているらしくピィピィと啼きます何もないのでバナナの熟れたのが有りましたからそれを食べさせて二人して近くの獣医さんに連れて行きました。 羽も傷んでないのでお腹が空いているだけだから直に元気になるから大丈夫だよと言われて喜んで帰って来ました。 庭の親鳥達は諦めたのかいつの間にか姿を消しておりました。 どんなに一生懸命世話をしても自然界の生きものは人工的には難しいことを知りました。 一時はとても元気になったのですが2・3日してグタリしてきて下利便が始まり呆気な い最後でした。 良く世話をした孫達二人は泣きながら紫陽花の木の根本にお墓を作って手厚いお 見送りをいたしました。 小さな命を優しく最後まで面倒を見たことで命の大切さを勉強できた事に感謝です。 「ひよどりの命預かり介抱し命の尊さ知った孫達」 [ 更新日時:2005/07/22 07:27 ] |
蚊帳2005 / 07 / 19 ( Tue )
懐かしい蚊帳と言う字をブログの中で見付けてTBして
みたくなりました。 昔は夏と言えば蚊帳はあたりまへ何処の家にも、 一張りや二張りは有った物です。 普段使うのはカンデーシャで出来ている緑の重たい 物でした。 来客用には、紗の白地に涼しいぼかしの綺麗な物が在ったような気がします。 四隅にマアルイ金の輪が着いていてこれを欄間に掛けたL字型の金具に掛けて部屋 中を天蓋の様に覆うのです。 蚊帳は夏が来たことを子供達に自然に知らせ、夜になると楽しい遊び道具と成るの でした。 2カ所だけ吊して先ずは海に見立てて泳ぐことは、楽しい遊びでした。 幾らでも泳げますし手足をばたばたさせて海に行った気分を満喫しました。 有るときは蛍を沢山捕まえてきて蚊帳の中に放し真っ暗にして蛍の光を楽しんだこともあります。 次の朝は後始末が大変でしたが、これは親がやっていたので記憶にありません。 クーラーも扇風機もない時代唯一風を起こすのは、団扇位でした。 蚊帳に入るときはこの団扇で蚊帳の回りの蚊を上手に払わないと一緒に蚊が蚊帳の 中に入ったら大変です。 一晩中悩まされて眠ることが出来ませんから、出るのも入るのも蚊帳は難しい物で した。 見かけ倒しで中は思いの外暑いのです、田舎ですと夕方から風があったり戸や障子を開け放して寝ればいいのでしょうが。 この蚊帳は畳むのに一苦労するのですが、私は蚊帳を畳むのが上手で家中の蚊帳を畳まされるので、蚊帳は嫌いでした。 大きくて重いので小柄な私には重労働でしたから。 何年かに一度は母が水染めをしていたのを見たことがあります。 昔の人は古い物を季節の終わりに綺麗にして来年のために慌てずに済むようにキチントしていたのですね。 緑色に染められた蚊帳が物干しの天辺に風にそよぐと夏の終わりを知った物です。 「一張りの蚊帳の温さよ夏が来て蛍の宿に明ける朝来る」 [ 更新日時:2005/07/25 07:01 ] |
お代は氷で2005 / 07 / 19 ( Tue )
三連休で孫達の出入りで賑やかな我が家でした。
お昼に娘から電話が有りまして。 娘・「お蕎麦茹でたから来ませんか」 私・「有難う!!嬉しい・・」 娘・「あの〜食事代に・・氷呉れる」 私・「売るほど有るから・・」 娘・「助かる・宜しくね」 そうなのです時々冷蔵庫の氷は娘の家で使ってもらいます。 今時珍しい三世代の家族ですからこのシーズンは幾ら作ってあっても足らないようです。 6対1の違いでしょうか・・お休みの日は特に消費が早いようで我が家の氷がピンチ ヒターを務めます。 ビニール袋に一杯詰めて持って行きました。 わぁ〜氷と・・お婿さんが大喜びです。 この方が居ると急速冷凍で氷を作っても足らないのです。 近くて良かった。 歩いて三分走って一分で・・本当に^^; 「大葉の葉そして氷とお互いの間つないで用が足りてる」 [ 更新日時:2005/07/19 08:23 ] |
人見て己を知る・・闘病記2005 / 07 / 17 ( Sun )
![]() 症状が落ち着いてきて一般病棟に移りました良い 人達だと良いなぁ〜と思うのは此方の勝手でして・・ 待ってる人達もどんな人が入ってくるのかしら・・ 三階病棟は産科ですので比較的明るく静かなところ です。 主任さんが良く覚えていて下さいまして・暖かく迎えて下さいました。 「少し五月蠅いけれども我慢して下さいね。小さいお子さんが来ますので」・・ 午後になりますと赤ちゃんを見ながら新米お姉さんやお兄さんの成り立てさんが・ お母さん恋しくて飛んでくるのです。その度に主任さんが「シッィーし・ず・か・に・・」 同じお部屋の方は、私と同じHCUから、朝上がってきたGさん・突発性難聴のKさん・ 育児ノイローゼのSさんの4人です。皆さん気さくな良い方で明るい笑い声が絶えない 病室でした。 どんなに気を付けていても病気には成るんだなぁ〜と思いました・・が・・その深いとこ ろにはストレスが潜んでいるのが良く分かりました。 Gさんは、自宅で突然の高熱に倒れ、ほぼ全身に火傷のような赤い大きなじんま疹 の様な物が出来ての入院でした。 娘と年が2つ違いですのに大変なご苦労をしている方で自分が大黒柱の様な存在で したから・若い頃の自分を思い出してしまいました。 ご両親が二人とも違う病院に入院していて、お二人とも認知症とのこと・ご主人様が お若いのに「パーキンソン」で手が段々不自由になってきていること・18歳で結婚した 娘さんが、3歳になる坊やを連れて離婚してきた事・一番下の息子さんが高校を中退 して・フリーターになって夜はバイクで遊び歩いていること・・聞くとも成しに聞こえてくる 話を聞いていて人ごとながら・気の毒でこれでは・病気になっても仕方ないなぁ〜と 思いました。 心身共に疲れ切っているのでしょう良く眠っておりました。 45歳くらいの若さでこれだけの人生を歩かなければいけないなんて・・可哀想すぎ ます明るくて良く気が付いて動けない私の買い物もみなしてきて下さいました。 彼女は外来で海外旅行に行ったか聞かれたそうです。そのくらい怖い感じがしました から・熱が中々下がらずに,病名が点いたのが各種の病理検査が終わって一週間後でした「結節性赤斑病」だそうです。 先日電話で帰って直ぐにお婆ちゃんが違う病院に移らなければいけないと・かなりショクのようでした・・無理をしないようにとしか言えませんでした。 どうか一日も早く心穏やかに過ごせる日が来ますように・・ 自分の幸せに気づかされた日でした・・ [ 更新日時:2005/07/17 08:39 ] |
一体何処から2005 / 07 / 16 ( Sat )
人が住まない家は傷みやすいと昔から言われて
おりますが今度の入院で思い知りました。 娘も病院に来なければいけませんから家を開け に来ることが出来なかったようです。 10日間閉めたままの家は何となく湿ったような 感じが致しましたが風通しが良い家ですので1時間程で許の状態になりました。 所がです・夜になりますと・とんでも無いことが起こり始めました。 越してきて一度も出なかったのにこのお客様達は何処から遣ってきたのでしょうか・・ 買い物には行けないし、暫くは仲良く共同生活を楽しんでも良いかなぁ〜なんて・・ 思っておりましたら・・日毎に増え始めてきました・台所は綺麗に片付けるのですが・ 人が居るのは食べ物があると言う事をチャンと知っている賢さには閉口しました・・ 我慢我慢で2・3日過ごしていたのですが・何と人によく懐いて呉れまして、身体に 登り始めました。数もかなり増えてゾットするくらいです。 此では、もう我慢が出来ません私より息子と娘が退治に乗り出しました。 ドラクストアーで、「置いたその日から居なくなる」とキャッチフレーズ付きの薬を買って 来てくれました。早速床下収納をお掃除して床下から・至る所に置きました。 次の日から「あぁら〜不思議」一匹も出てきません・こんなに効くなんて・信じられない・ 2・3日しますとからからに乾いた死骸が何匹か出てきましたが・・今の所姿をみて おりません・・大変なお客様騒動でしたが無事に解決してホッとしております・・ [ 更新日時:2005/07/16 07:44 ] |
新婚さん2005 / 07 / 16 ( Sat )
この所スズメさん達や百舌の鳴き声が賑やかです。
朝・・路をお掃除しておりますと・やたらと白い物が 落ちております。 此が中々掃いても取れないのです。 何で?と思い見上げて見ますと電線が有りまして 鳥さん達が仲良く並んで、その序でに用足しをしていくのですね。 雨戸を繰りますと慌てて逃げ出すつがいのスズメがおります。 私の姿が見えなくなると又飛んできてダイニングの前の庭に来て何かを啄み始め ます。 新婚さんらしい様です・1羽は椿の根元で用心深く様子を確かめてから走ってきます。 よく見ておりますとスズメって二歩ピヨンピヨンとはねるように飛んでは一休み・・ 又ピヨンピンと飛ぶようにしか歩けないのですね。 小さな花畑に私が「麦茶」や「ハブ茶」の出し殻を蒔きますからそれが美味しいらしくて・食べに来るようです。 何時も一緒で仲良く朝と夕方にやって来ます。 時々パン屑も細かくして蒔いておきますと楽しそうに食べて帰ります。 中々用心深いので感心します・・多分先にやって来るのが彼でしょう・・ 安全を確かめてから・椿の根元の彼女をチチィと二度ほど啼いて呼びます。 二人仲良く食べて満腹になるとお隣の屋根で一休みしてから何処かに飛んでいきます。 仲良しの新婚さんが遊びに来てくるお陰で少しの間は、物音が立てられません。 ジート見て楽しんでいる朝の一時です。 「今時の一茶の心真似てみて朝な夕なの持てなしとして」 [ 更新日時:2005/07/18 00:15 ] |
花粉始末記2005 / 07 / 15 ( Fri )
こんなにお掃除をしないで家を閉め切ったままで
過ごした年が今までに有っただろうか・ 無かったような気がする。 どんなに凄い時でも買い物や散歩には出掛けて おりましたから・・ 娘が風の強い日には車で家に来ておりましたから・・歩いてきた方が余程早いのに 「大袈裟でなく本当に異常でした」から。 元気になりましてさて始めましたお掃除ですが・・ 何が大変かと言えば「サッシュの溝」に固まってこびりついて居る花粉を落とすこと でした。 一番外側の「雨戸のレール」は束子でこすり落としました。 二階のベランダは雨が降って濡れた翌日びしょびしょの雑巾で拭き取り何度かしてヤット綺麗になりました。 難題が一つBSのアンテナでした。見事な汚れ方で・・見ただけでウンザリでした。 はぁ〜どこもかしこも凡てこんな状態です。 玄関の三和土はもうー思い切り水を流しておいてクレンザーを付けて大きな束子でゴシゴシと・・色が変わるほど綺麗に白くなりました。 クーラーの室外機です「中にも花粉が?」お水を付けて此も束子でゴシゴシと・・ こんなアホみたいなこと遣るくらいなら一層家事お風呂に沈めたくなりました。 それでも雨が降ってくれましたので大分流してくれたと思います。 ガラス拭きをしてみまして二度吃驚でした。内側は綺麗でしたが外側を拭きますと雑巾が黄色くなりました。 窓の手摺りも落ちませんでしたね・・暮れの大掃除より大変でした・・ ヤット綺麗にしてやれやれですが・・残っております・・台所の換気扇が・此が凄いそうです。 娘がもう暫く遣らない方が良いからと言いますので・・辞めておりますが。 花粉まみれの家を綺麗にすることが、こんなに大変だとは、初めての経験でした。 何時も普通に暮らしておりましたから・・今この時期「栗の花粉」で泣いている人が居ます・・ お大事に・・来年はもう沢山です。どうか黄色い風は吹かないで下さい・・ そして普通の生活が出来ますように・・今の涼しさが本当に嬉しいです・・ [ 更新日時:2005/07/15 06:51 ] |
浴衣2005 / 07 / 14 ( Thu )
昨年の夏の終わりに浴衣地が値下げになるのを待って
買っておいたのだが、中々縫っている暇が無くて反物 の侭でタンスの中で眠っておりました。 着物が好きな孫達のためにせめて浴衣ぐらいは縫って 着せてやりたいと思って居たのですが、 先の入院で遅れ遅れに成ってしまい暑くなる前に縫い ませんと手に汗を掻いて針が渋くて手こずりますから・・大きい孫が、試験休みで遊びに来たのを良い機会に反物を出してみました。 優しいピンクの地に可愛らしい花柄でそれが良いとのことでしたので・・積もって見る ことに致しました。 背が高いので少し身丈を長くしてやりませんと・腰袋が取れないと見た目が綺麗で有りませんから・・ 袖丈も少し長くして置くことにしました。 背縫いを合わせて柄合わせをしてみますと綺麗に柄が有ってくれました。 柄合わせが済めばもう出来上がったのも同じなのですが・・下の孫の方はどう遣り繰り致しましても思うように柄がしっくりと合ってくれません・・もう泣きたくなりました。 どうしても柄の位置が落ち着きません時々こんな想いも致します。 自分で見立てた柄なのに・・衣桁に掛けて有るのと積もって背縫いを決めてみるのと では違いが出てくるのです。 仕方有りませんから・反物の初めと終わりから袖を経っておくみ丈を取り残りを見頃に致しまして、互い違いに組み合わせてみましたら・出来ました。 良い柄合わせに成りました・・ 見ておりました孫が一言「奥が深い!!」私も断然浴衣を縫ってみると言い出しまた。 ではあなた達が子供の頃に着た浴衣を綺麗に解いて本立ちに出来るように反物にして有るからそれでお稽古しなさいと・・ 「孫達の浴衣は四つ身が本立ちになる様に」経ってありますので・・夏休みに挑戦してみるそうですが・・ 果たして運針が出来るのでしょうか・・「敵(かたき)の着物もお袖から」と言いますから・・袖が縫えれば出来るでしょう・・浴衣は合わせを縫うより大変です。 浴衣を縫て袋が寄りますから・暫く縫っていませんので旨く縫えるかどうか私も自信が有りませんが・・ まぁ〜出来るでしょう・・「なせば成るなさねば成らぬ何事も成さぬは人の成さぬ成りけり」・・孫に和裁の楽しさを教えるためにも頑張りましょう^^; [ 更新日時:2005/07/14 07:34 ] |
研修医の先生・・闘病記2005 / 07 / 12 ( Tue )
![]() 朝の外来が始まる前に、病棟に来て下さる先生方・・この病院では当たり前のようです。 病状の説明を丁寧にして下さいますし、此方の質問にも気持ちよく答ええて下さいます。 何が安心かと言えば今自分がどんな状態でどんな治療を受けているのかを知ることが出来ることです。 一人の見慣れない若い先生を主治医の先生が「研修医のF先生です」と紹介して下さいました。 彼にどこか或る親しさを感じたのは、俳優の「赤井 英和」に瓜二つだったからかも知れません。 ベットサイドに大きな体を折るようにしてかがみ込んで、色々なお話を分かりやすく説明して下さるのには感激致しました。 ニッコリ笑って「これが研修医の勉強なんです」・・伊勢原から此方に来られて二年目で ヤット患者さんと接点が持てるようになったとのこと・・ 「今はお給料が貰えるだけ良いのですよ」とは・・では・今までは無給と言う事なの・・ 日曜日の回診に彼が一人で見えて暫く話し込んで行かれた時の話です・「神戸に帰りたいなぁ〜・・と・・しみじみと言っている姿は、27歳の普通の青年でした。 私の親しい方と「同姓同名 異人」の彼も神戸だなんて・・人生って面白い!! 午後の3時になってもお昼が食べられない事も・馴れてきて最近は二食で事が足りると言う・・ その割には太っていましたが・・夜近くの独身寮に帰っても「ステレオ」も無く好きな音楽を聴くことも出来ず・・研修を終えて一日も早く学生寮に帰りたいそうです。 ストレスが白衣を着てますと笑っておりましたが・・優しい良い先生でした。 お医者さんになるのも樂でわ無いなぁ〜と実感致しました。 退院する日の朝早く来て下さいまして家に帰ってもけして無理しないように・・念を押すように言はれた時は優しい孫と別れるような寂しさを感じました。 どうか・あと少し頑張って良い呼吸器科の先生になって欲しいと思い握手した手の温もりを私は忘れられないと思います。 [ 更新日時:2005/07/13 20:12 ] |
HCUにて・・闘病記2005 / 07 / 11 ( Mon )
![]() 処置室で先生が持続用の点滴を入れたところが、 右手の手首の近くでしたので起きて居るときは 出来るだけ手を伸ばすようにしておりましたが、 眠ってしまいますと自然と手が折れて点滴の 落ちが悪くなるらしいのです。 2日目の夜勤の看護婦さんが、お年寄りを寝せ つけるために添い寝をしているのには驚きました。お婆ちゃんが眠りますと私の所に 来て、優しく「起きてる・・ゴメンネ・点滴差し替えよう・こんな所に刺されてお手洗いも 困るでしょう・医者を何年やってるのかしらね」・・少々言葉使いは勇ましいのですが・・ 優しい看護婦さんでした。 「これから先長いのに此では不自由よね」と言うが早いか点滴を抜いてしまいました。 ランプを持ってきたのですが・「電気付けよう・暗くてダメだ・内緒だからね」・・ 茶目っ気たっぷりにネームカードをひっくり返して、「名前は内緒ね」・・ 手際良く左の腕に刺し替えて下さいました。 「今度は良く落ちる・お疲れ様でした。痛かったでしょう・オヤスミナサイ」と言って 次の仕事に這入っていきました。 実に良く働く看護婦さんです。点滴を刺し替えて頂いたお陰でとても楽になりました。 点滴の刺し替えは、殆どが研修医の先生のお仕事だと言う事が後で分かったこと でした・・ 違う看護婦さんですが・「手が震えていて可哀想で見ていられないのよね・代わってや りましょうかと言いたくなるけど・・」・・本当に先生より看護婦さんの方が注射は上手か も知れません・・HCUは緊急患者が運び混まれる所ですので皆さんてきぱきとお仕事 をこなしかなりハードのようですが、チームワークが良く若いのに良く気が付いて下さ います。 少し熱が上がりますと黙って居ても水枕を持ってきてくれます。 冷たい氷水は何よりのご馳走でした。 嫌な顔一つしないで何時もベットサイトに置かれておりましたのは感謝です・・ 次の朝早くに「狭心症」の患者さんが運び込まれてきました・・つづく [ 更新日時:2005/07/11 18:40 ] |
救命ブログ2005 / 07 / 10 ( Sun )
いつものようにPCを開き私のブログが更新されていな
い事に気が付いた娘が急いで飛んで来てくれました。 その2日前くらいから何となく体調が思わしく無かった のですが・・寝不足だろと思っておりましたので、気に しておりませんでした。 12日の夜半から身体が締め付けられるような悪寒に 見舞われまして電話を掛けるのも大儀でジットしておりました・・ 飛び込んできた娘が吃驚致しまして、とにかく病院に行くしかないのだからと・・車を 取りに行っている間に、どうにか身繕いだけ済ませて待っておりました。 8時半に近い時間でしたので・電話を掛けてから行くことに致しました。 「東海大」は電話連絡をして「再来の予約」を致しますと、受付でも待つことなく受診することが出来るのです・・ 呼吸器科の看護婦さんが、本人に電話に出るようにとのことでしたので、私が電話に出ますと「多分入院をすることになりますから・その支度をしてきてください」とのこと・・ 私としましては3月2日に退院したばかりですから・・気分の悪いことよりショクの方が大きかったような気が致します。 検査の結果「ウイルス」反応の数値が高く、(HCU)に収容されました。 それにしても・・娘にブログを内緒にしておかなくて良かったと思いました。 口で言いにくいことも去りげなくブログですと書けますので・・ ブログの更新が無いことにいち早く気が点いて呉れた娘に感謝した日でした・・ 普段は些細なことで喧嘩も致しますが、良く気に留めていてくれることは感謝です。 [ 更新日時:2005/07/10 21:10 ] |
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