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ひなたぼっこの縁側日記

日々のことをつれづれなるままに書いて行きたいと思います。
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日に日に悪くなる食糧事情



日常の食料が、統制下に置かれて配給制度になり
今のように冷蔵庫が有るわけでもなく。

生もののお魚が一度に沢山配られても傷んで
しまい母は、何時も苦労をしていたようです。

猫の額のような庭には、色々な物が作られて
いました。

カボチャは、代用食の代表選手でした「結婚しましたときに、南瓜は一生食べるだけ
食べているから、食べないと主人が言っておりましたから」

塀に沿って玉蜀黍が作られてました、その隙間に朝顔が時々咲いていたのが慰め
でした。

何処の家も皆同じ様で、食べる事に精一杯だったのです。

大豆は家の前の通りのアスファルトを掘り返して作っていました。

大豆は、ご飯に混ぜてお豆のご飯にするためです。

お豆のご飯は、美味しかったのですが、これを食べると決まって私はお腹を壊しました。

母と芹摘みに近くの田んぼの畦に出掛けました、田舎育ちの母は、食べられる野草をよく知っていました。

田んぼのタニシは今思えば、大切な蛋白源だったようです。

近くのガキ大将が、バケツ持ちに良く連れて行ってくれましたが、蛭がいて私が泣き
出すと優しく取ってくれました。

子供の世界では、未だそんなに悲壮感はなく、毎日が楽しく過ぎていったのでした。

学校では、日に日に友達が疎開して減って行きました。

我が家でも父が真剣に疎開を考え始めました。

そして、家の中から少しずつ荷物が無くなっていきました。

ある日父が散歩がてら、近くの農家に行きましたらアヒルの卵を頂きました。

その大きくて重いのに驚いている私に美味しいよ・・食べられるからねと言われました。

少し気持ちが悪いと思いましたが、母が焼いてくれた卵焼きの美味しさが忘れられ
ません。

今思えば随分と贅沢な事だったのですね。

この時、父は大切な本を何冊か持って行ってそこの家の息子さんにあげたようでした。

このころは未だ良かったのですが段々酷くなってきますと、「竹の子生活」が始まり
ました。

学校では身体の弱い子に「ハチミツや肝油」の配給が有りましたが、それも長くは
続かず一度貰っただけでした。

寒く成ってきますとダイコンの葉っぱが何処の家の軒下にも吊されていました。

「干葉(ひば)」と言って保存食になります。(今はお風呂に入れてますが)・・

お米に混ぜて炊き込みご飯にするためです。

当時は大根には葉が付いていましたから、今考えると自然と鉄分補給をしていたのですね。

19年の年が明けるのを待って我が家は本格的に疎開の準備を始めました・・つづく

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