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ひなたぼっこの縁側日記

日々のことをつれづれなるままに書いて行きたいと思います。
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慣れない田舎での生活



1944年頃は、交通の便も悪く、情報も今のように豊か
では無かったので田舎と都会の生活にはかなりの違い
がありました。

日常生活も大きな違いがあり見るもの聞く物が珍しい
生活が始まりました。

戸惑うことの方が多かったような気が致します。

お婆ちゃんを始めみんなが暖かく迎えてくれたことは幸せでした。

年の近い従姉妹達も仲良くしてくれましたが、一番困ったのが言葉でした。

普通に話していても気取っていると言われて次第に話さない子になって行くのでした。

母からは、お世話になるのだから何でも一生懸命にお手伝いをするようにと言われておりましたから、それなりの努力はしたのですが。

一番怖かったのが釣瓶井戸でしたはね釣瓶でしたから足下が大きな井戸の穴でした。

桶を井戸に落とすと自分も一緒に落ちてしまいそうで慣れるのに一番時間が掛かりました。

お婆ちゃん・叔父さん親子四人・母の弟二人・2番目の叔父ちゃんは、その前の戦争で支那から「傷慰軍人」として帰ってきていました。

一番下の叔父ちゃんは「陸軍士官学校」(現在自衛隊榛名駐屯地)の生徒でした。

母と私が加わって9人の大家族になってしまったのです。

学校では「疎開子」として虐められました農家に対して非農家と言う言葉も始めて覚えました。

いつもの普段着で学校に行くのですが、洋服を着ている子は珍しいらしく一人だけ目立つのが嫌で、母に頼んで「標準服」を作ってもらいました。

運動靴から「わら草履」にと日が経つに連れてみんなと同じになり従姉妹達とも山に牛車に乗って薪拾いに行く事にも慣れました。

日常生活がガラッと変わった為か気の使い過ぎなのか「おねしょ」が始まって母に苦労を掛けました。

従姉妹達にも恥ずかしくて嫌でしたこうして少しずつ田舎の生活にも慣れた頃母が隣村の叔母ちゃんの家にお手伝いに行くことになったのです。

私も行きたかったのですが学校の手続きが面倒なので残ることになりました。

叔母ちゃんの家は村で一軒しかない「床屋」さんで、叔父ちゃんに何時招集礼状が来るか分からないので。

叔母ちゃんが理髪師の免許を取るためのお手伝いに行くことになったのです。

母を送って同い年の従姉妹と出かけましたが、一山越えていくのには、帰りのことを考えると心細さで涙ばかりが出てきました(距離にして一里は優にあったでしょう、往還
から山道に入りますと、人家は無く次の部落まで何を目印に歩くのか、見当が付きませんでした。)

夕方母に見送られて二人して帰る路は長く遠い物でした、こうして誰にも頼ることの出来ない一人だけの生活が始まりました・・つづく・・

陸軍士官学校とは

釣瓶井戸とは

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