軍服は桑の皮ですか



あの頃の子供は良く働いたと思う。

家からそして世間から男手が無くなると言う
ことは自然とこうなるのかも知れません。

親に言われるまでもなく身体がそして気が
回る子供に成って行きました。

農家の生活もけっして食糧事情が良かったわけではないのです。

かなりきつい供出が強制的に行われていたようですから・・
街から買い出しの人が来るたびに、伯父が気の毒がって、
例え少しの野菜でも持たせて返していたのを見てました。

伯父の所でもサツマイモのご飯やら南瓜のご飯、普段はお米が何処にあるのか
探したくなるような麦飯と、畑の桑の間に作ったコウリャンやらキビなど何でも頂き
ました。

ちゃぶ台は無くみな箱善で私は自分がお雛様になったような気分で此は大変
気に入っていました。

学校から帰ると桑の皮剥きが仕事でした。

最初は手で剥いておりましたが、手がアクで落ちませんので道具を作ってくれました。

さん又のようにして皮を持って引っ張ると桑の木の真っ白い木肌がするりと出てきます。

これは近所でも評判が良くみんなが作って、桑の皮の増産に励みました。

先生の話ですと此で兵隊さんの軍服を作るとのことでしたから、物資は底を付いて
いたのでしょう。

桑の皮は一握りほどに束ねえて良く乾燥させて、1貫目(約4K)ずつに束ねて供出
していました。

これは子供の仕事でしたから、みんなに負けないように一生懸命に頑張りました。

この当時の負けるという事は恥ずかしいことだったのです。

この他にドングリ拾いやら、マッボックリも拾いました。

此は、飛行機を飛ばす油を絞るためのようでした,男の子は松の根っこ堀に駆り
出されていました。

主人は、山形に疎開していてこの勤労奉仕で、足のお皿を割ってしまい歩くのが
少し変でした。



一番下の伯父に出征の命令が出たので、祝賀会を親戚や近所の人達と遣ること
になって、母が伯母と帰ってきました。

お婆ちゃんは、もう二度と食べられないだろうからと、内緒でお餅を夜中に搗いて
伯父に食べさせました。

世の中が落ち着くまで此が最後のお餅の味でした、2日後に伯父は「勝ってくるぞと・
勇ましく」の歌と日の丸の旗に見送られて出征して行きました。

私より一回り大きな丑年でしたから未だ19歳位だろうと思います。

兵隊さんの年もドンドン引き下げられて、引き揚げられて行ったようです。

母は、伯父の経営する「ヤスリ工場」が増産に継ぐ増産で忙しく成ってきたので、
今度はM市に行くことになりました。

私も一緒に行くことに決まり、嬉しくて、その晩は眠れませんでした。

まさかあの恐ろしい空襲に遭って舞い戻ってくるとは夢にも思っていません
でしたから・・


※大磯の別邸にいた吉田茂は庭の松の木の供出を求める憲兵に対して、
 「こんな木を供出して戦局が好転などするわけがない。 ..と言ったそうです。.

コウリャンってこんなものです。

21:17 | 私の戦争体験記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑