2005-08-07(Sun)
外側から内側に向かっての爆撃でした(1)

夏休みが、空襲で授業が出来ないために繰り上げ
られて、毎日警報が鳴る中で何処かに行くことも
出来ない暑い夏でした。
東京が三月十日に大空襲に見舞われ、主人の話
ですと6年生でしたので卒業式の為に長野の疎開
先から戻った晩に、この空襲に在ったそうです。
目の前に焼夷弾が落ち突き刺さったときは死を覚悟したそうです。
幸いにも不発で済んでくれて助かったと言っておりました。
疎開先から持ち帰った荷物は解くこともなく凡て焼けてしまったそうです。
如何に戦争が酷い物であるか考えてしまいます。
沖縄が玉砕して大都市が、壊滅しますと、小都市が狙われ始めました。
栃木・太田・中島飛行場が在る所は狙われたようです。
次は前橋がやられると大人達は話していましたから毎日空襲が在る度に生きた心地
はしませんでした。
母は私を田舎に置いてこなかったのは、自分にもしもの事が在ったら一人に成ってし
まう私を手放せなかったのです。
八月に入りますと空襲の回数が増え夜も黒い服を着たまま寝るのでした。
硫黄島、沖縄と玉砕した時点で大人達は、神風が吹くとは誰も思っていませんでした口に出さないだけでもう負けると思っていたと思います。
余りにも長い戦争でみんな疲れ切っていて、どうでも良いから早く終わって欲しいと思っていた事でしょう。
5日は、朝から外に出ることが出来ないほど、サイレンが鳴り続けて母は出来るだけ煙が出ないように気を付けて有りっ丈のお米を炊いておにぎりを作りました。
夕方警防団の橋爪の叔父さんが来て、電話を外して防空壕に入れました。
今夜は来るから、しっかりと身支度をして何時でも逃げることが出来るように、して
置きなさいと言って帰って行きました。
履かないで取っておいた運動靴を母が出してくれました、脱げないようにゴムひもで
足にくくり付けて履きました。
今夜は防空壕は危ないから利根川に逃げようと隣組の人達と決めていたようです。
荷物は持たないことに決めました。
防空頭巾は二枚重ねて被せられると暑くて堪りませんでした、朝から本当に暑い日でした。
その暑さを感じさせないくらい、大人も子供も緊張していたのです。
万が一のことを考えて母は大きな掛け布団を水道の水でビショビショに濡らしていました。
木綿わたですから、とても重かったのでしょうがこの重さの記憶がないのです。
9時近くに、もの凄い爆音が聞こへたと思ったら爆撃が始まりました。
空襲警報は、朝から解除になっていませんでした。
B29とグラマンの爆音のするなかでただひたすら暗く成るのを待ったのでした。


