あの日は、ミズリー号甲板上で戦争終結の調印式が行われる日で
夏休みに自転車の稽古をしてやっと棒乗りが出来た私に自転車に
乗せろと云う母は切羽詰まっていたようだ。
握り締めていたうな電は、「ハハ キトク」だった。
あの日、父や兄の姿が見当たらなかったのは何故だか記憶にない。
男乗りのごつい自転車が一台薄暗い土間にあった。
泣きながら自分より重たい母を荷掛けに乗せて駅に急いだけれどバスは
出たばかりで次に出るのは夕方で自分の足だけが頼りで、残暑の厳しい
中を下駄の鼻緒を気にしながら急いだ。
小粒の私は身が軽く山道は苦に成らず母の荒い息遣いが今も思い出される。
着いて見ると父の姿が其処にあったのには腹が立った。
この葬儀で私は始めて自分の名前が這入った花かごを振って祖母を
見送った。
子福者の祖母は孫の数が多く綺麗な花かごが延々と続き近所の年寄りが
羨んでいたのを誇らしく思った。
父の葬儀の花籠には、娘の名前が書かれ生まれて間もない娘に変わり
主人が綺麗に廻して籠を空にした。
足元の麦が10cm程に伸びて空っ風に揺れていた。
スポンサーサイト